『素晴らしき時の震え』


この美しいタイトルの本は、フランスの文芸批評家ガエタン・ピコンによって書かれたものです。日本ではあまり知られていないようですが、ピコン(可愛い響きですね)は1915年にボルドーで生まれ、1976年にその生涯を閉じるまで、文芸評論家、美術評論家として活動した人物です。


私は学部生のときに図書館で偶然『素晴らしき時の震え』という文字を眼にし、どこか心惹かれるものがあり、借りて帰って読んだのを覚えています。しかも、この本にはたくさん図版が掲載されているのですが、その中の一枚、ギリシャ彫刻の《仔牛の貢ぎ物》のページをコピーして、大切に取ってあったのを覚えています。

それは綺麗に髪を編み込んだギリシャの青年が、肩に仔牛をかついでいるという彫刻なのですが、微笑をたたえた口元と、大きく見開かれた目の、漆黒のまるい二つの瞳がとても印象的だったからかもしれません。



ピコンがこの本の中で言わんとしていることを、乱暴にも一文でまとめると、芸術作品とは、作品に先立つ現実世界を指し示しているものではなく、作品そのものが自身の内的構造を持った、或る現れわれのきらめき、時のふるえである、ということになります。そして興味深い指摘は、芸術と嘘とが、ともに存在しないものを存在させようとしている点で、共通しているということ。一方が現実との間に広がる空虚を必死で埋めようとするのに対して、もう一方はその空虚の中に留まり続けます。私はこの箇所を読んだとき、イギリスのラファエル前派の画家であり詩人ダンテ・ガブリエル・ロセッティのソネット「生命の家」の中に出てくる次のような一節を思い出しました。


「もし君が望んだら在り得たかもしれぬ者、存在し得たかもしれぬが存在しなかった者、これが私の名前だ」


ご存知、『失われた時を求めて』の小説家プルーストは、ある青年から写真の献辞として送られたこの詩をいたく気にいって、のちに繰り返し引用することになります。存在しないものには、存在するものよりもいっそう多くのものが含まれていて、それゆえに存在しないものを存在させようとする行為には、ある振動が伴うことになるのではないでしょうか。


ピコンの次の一文は、時のふるえとしての芸術作品の誕生を、見事に言い得ています。

「老人の顔や花や若い肉体などのうえに留まっている生命をいそいでとらえようとしている画筆がふるえるのは、その画筆が、まったく別にものにいたりつこうと試みているまさしくその瞬間に、おのれが時間によってとらえられるのを感ずるからだ、と考えることが出来る」


もし図書館でこの本に出会うことがあれば、ぜひ手に取ってページを開いてみてください。

ガエタン・ピコン『素晴らしき時の震え』粟津則雄訳、新潮社〈創造の小径〉、1975年



横山